「お客さま、そちらは店員を呼ぶボタンではなく、上司のお腹がゴロゴロとなりだすボタンです。頻繁な押下はご容赦ねがいます。 説明が不十分で申し訳ございません。」
— トビーネット (@toby_net) July 20, 2022
「説明が不十分でしたら、責任者をお呼びしますので、そちらの上司のお腹がゴロゴロなりだすボタンを押下ください。」
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最初は、我慢していた。だが、ボタンが気になって仕方がなかった。これは故意ではない。ほんのささいな……事故なのだ。ついヒジがあたってしまう。
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しかし、あなたの意思に反して、そのボタンは押下のたびに「ジャバ」となりひびき、店員はおろか、上司のお腹にとても影響をあたえるような印象をあたえなかった
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押下とともに鳴り響く「ジャバ」音。周囲のお客が振り返るくらいには、大きな音であるが、店員を呼ぶ、もしくは上司のお腹に届くには小さく感じた。 無線式で、スタッフルームでも鳴っていて欲しいものだった。
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ふと、立てかけられたプラスチックのメニューを手に取り、裏をのぞく。そこには「押下の心得 10箇条」なるものが、達筆で書されていた。
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1. これを読んだものは、押下すること。
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2. 1 を実行し、水を 1/10 飲んだら、次に進む
こんな調子であった。 10 までには、「もし○○がどうたら、どう」と書いてあったが、私には何のことだか分からない。
日々、ボタンを連打してからというもの、ふだんの疲れがとれるようであった。朝、注文を入れ、ボタンを連打。ランチに来て、連打。夕食によっては連打。
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実際にボタンを押したとき、上司のお腹が鳴りだすのか、もはや気になっていなかった。日々、押下するボタンからなりだす「ジャバ」という音が、身体的疲労、ストレス、人間関係などすべて洗い流してくれていた
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「お客さま、ボタンのご利用ありがとうございます。 頻繁にご利用のお客さまには今月分の請求をお伝えしなくてはなりません。こちらをご覧ください」
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あなたは、請求書を見て目を見開いた。そこには、長々と明細があったのだが、最終的には 0 と書かれていたのだ。無料。何という響きであろうか。
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ちらりと目線をやった店員があなたの視線に気がついた。「規則は規則ですので」
一瞬、スタッフルームの通路を横切る紅い者 ーー ムチをもち背筋を伸ばしきった全身紅いスーツの女らしき者 ーー が見えたが、一瞬スタッフの声に気をとられた、次には消えていた。
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再度、店員の方を見ると、店員の代わりに、紅いスーツの女が立っていた。あなたの心臓がひととき止まる音が聞こえた。
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その女らしき者が言うには、どうも要件を満たすとのことであった。そして破格の収入を提示された。内容はボタンの説明。つまり……先日まであなたが店員になされたサービスをするのである。 気味がわるくなり、あなたは断った。
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その日はトイレから戻るころには、スタッフはいなくなっていた。厨房や控室まで除いたが誰もいなかった。むろんレジにも。
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レジにあるボタンはいくら押しても「ジャバ」と鳴るだけであった。そのたびに、目の前の電子的ディスプレイには「無料」と表示された。 店員が来る様子はなかった。
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よくよく店内を渡すと、「無料アプリ」、「今すぐダウンロード」、「広告を見てポイント」なる文言のポスターがそこら中に貼られていた。
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とにかく、その日は、あなたも「ジャバ」と叫びたくなったのだが、その場をさった。なにせ無料である。領収書をもらいに引き返そうと思ったが、思いとどまった。一刻もここを離れるべきだ。あなたの直観が告げていた
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あなたは「正気」をとりもどしたようだった。どこから「正気」ではなかったのだろうか。あなた以外にも「正気」ではない者たちが ーー 無料に取りつかれた者たちーー 施設へと吸い込まれていくように、目に映った
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車のオートロックが解除されたとき、「ジャバり」と聞こえた気がした。 座席に乗り、エンジンを掛けようとキーを取り出すと、そこには今にも「ジャバ」と鳴りだしそうな形状・色のボタンが入っていた。
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思わず、あなたはドアお開け、キーを、いやジャバボタンを放り投げた。地面から見れば、ボタンが転がるたびに傷がついていった。オークションでいえば「ノークレームノーリターン」「返品不可」という状態だ。「ジャンク」とまで題名につけるかは分からない。
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慌てたあなたがエンジンを掛けると、元々カバンにあったキーが反応し、慌てたあなたに当てつけたかのように一発で車が動き出した。いつものように、静かに動き始める車は、タイヤが砂利をかむ音をあなたに届けていた。
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混乱し、気が動転しているあなたとは対照的に、車は場内用、とくに安全な速度でゆっくりと動き出し、家まで送る道を走りだした。何事もなかったかのように。
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ーー二か月後
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インターホンが鳴りだした。ゆっくりと腰かけていたあなたの元に、見知らぬ配達業者。ジャバのことは忘れていたが、ここに来て思い出すとは思いもよらなかった。
届いたのは「ジャバ」ではなかった。ましてやジャバボタンでもない。玄関のドアの向こうには、紅い女も立ってはいない。おさまる鼓動と同時にあらわれた「期待外れ」の感覚。
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「そういえばお歳暮の季節か」
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包装用紙をいきおいよく開ける中身はいつものイチゴ大福である。お歳暮は「気持ち」でいいものだ。今や商品券付き、商品カタログもある。しかし「何がほしいか」と問われた相手にはいつもこう返していた。「イチゴ大福で」
考えるより早く、お歳暮の包装をはぎとり、箱を開ける。……あなたの期待に反して、そこにはイチゴ大福ではなく、ジャバボタンが入っていた。ジャバとの闘いは始まったばかりであった。
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『ジャバからの逃走』より抜粋
— トビーネット (@toby_net) July 20, 2022